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劉備の采配ミス? なぜ「夷陵の戦い」で黄権は軍師として使われなかったのか

ここからはじめる! 三国志入門 第105回

■黄権が軍師ではダメだったのか?

 

三国時代の地図(223~262年)制作/ミヤイン

 

 敗戦後、諸葛亮は「法正であれば劉備を止められたのに」と嘆いたと『三国志』は記す。なぜ黄権ではダメだったのだろうか。ひとつ考えられるのは、侍中(じちゅう)として従った36歳の馬良(ばりょう)の存在がある。劉備は彼を新たな軍師として期待していたようで、もちろん従軍させたが、残念ながら夷陵の敗戦で戦死した。(※なお、この時期の諸葛亮の立ち位置については先の回に述べた)

 

 このときの黄権の動き、正史と小説では若干の相違がある。小説『三国志演義』では、黄権は負ける寸前まで劉備に従軍している。深入りを諫めたところで別動隊の指揮を命じられ、遠ざけられるという筋書きである。

 

 正史には「先主(劉備)伝」と「黄権伝」の2つに記述があって、これも若干の相違がある。前者では小説同様に別動隊を率いながらも「夷陵道で呉軍と対峙した」。しかし後者では「北で魏軍を防いだ」とあって、単なる間違いなのか、どうにもよくわからない。いずれにせよ黄権は退却ができず、北へ走った。

 

■死の床についた劉備の後悔

 

 白帝城へ逃げ込んだ劉備のもとへ「黄権が魏へ降った」と急報が届く。「黄権の妻子を逮捕しましょう」と勧められた劉備はいう。「孤負黄權、權不負孤也」(黄権がわしに背いたのではない、わしが黄権に背いたのだ)とかぶりを振ったのだ。自分の采配ミスを認め、黄権の家族をそれまでと同様に扱うよう命じた。黄権をそばで用いなかったことを今更ながら悔いたのである。

 

 一方、魏に降伏した黄権のもとにも急報が届く。それは「劉備が黄権の妻子を処刑した」というもの。偽報である。黄権はそれを見抜き「私と劉備、諸葛亮とは誠実をもって信頼しあった仲」と取り合わなかった。

 

 その後、諸葛亮の北伐が開始され、司馬懿(しばい)が防戦の指揮をとった。そうしたなか、司馬懿は黄権と交流を結んだ。元・蜀臣だから、何かの参考になると思ったのかもしれない。「蜀には君のような人物は何人いるかね」と司馬懿が訪ねると、黄権は「あなたのご愛顧がそれほど深いとは思いもよりませんでした」と笑って応じたらしい。

 

 蜀への寝返りも疑われる立場で、その堂々とした振る舞いは健在だった。司馬懿は諸葛亮に手紙をやって「黄公衡は快男子です。普段からよくあなたを賛美し、話題にしております」と伝えたほどだ。

 

 その後、黄権が目立って活躍した記録はない。諸葛亮が北伐の陣中に没した6年後の240年、黄権も病で世を去る。彼には蜀に置いてきた子がおり、その名は黄崇。蜀滅亡のさい、魏軍と勇ましく戦って散ったという。

 

 小説『三国志演義』に登場する黄権は、珍しく正史からほぼそのまま引用する形で描かれている。「演義」は、劉備や諸葛亮を裏切ったり敵対したりした人物を良く書かない描写も目立つため、黄権とて、そうなってもおかしくなかった。

 

 そのまま描くことで劉備の仁君ぶりも示せるからだろうが、劉備自身が最終的に彼を高く評価したことが、やはり決め手になったのかもしれない。のちに魏に降伏した劉禅は「ここは楽しい。蜀を思い出すこともない」と言って「暗君」扱いされた。それもこれも、この黄権のような硬骨漢がいたからであろうか。

 

 最後に、ひとつ面白い記述がある。龐統(ほうとう)の弟・龐林が黄権の軍に従軍しており、ともに魏へ降ったのちに重用されているのだ(龐統伝)。かつて曹操の荊州攻略で龐林は妻と離ればなれになり、妻は魏の地で娘を育てていた。魏へ降ったおかげで龐林は十数年ぶりに夫婦と親子は再会、一緒に暮らせたという(『襄陽記』)。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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